下総国牧地開墾場へ移住之者授産向大意規則
社務所大広間の欄干に「下総国牧地開墾場へ移住之者授産向大意規則」の複製が飾られています。
これは開墾志願者募集要項ともいうべきもので、1869年(明治2年)10月に東京府中に廻達されたものです。
社務所に飾られている下総国牧地開墾場へ移住之者授産向大意規則の複製。
原本の下総国牧地開墾場へ移住之者授産向大意規則右側。
原本の下総国牧地開墾場へ移住之者授産向大意規則左側
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原本の画像は鎌ヶ谷市郷土資料館よりご提供いただきました。
条文の主要部を簡略化すると次のようになります。
①入植後3年間の衣食住の面倒をみる
②13~60歳の働くことができる者に、1人5反を割り当てる
③農業ができない場合でも、屋敷地として5畝を割り当てる
④開墾に従事する者に対して、1日分として1人あたり米を5合与える。また、5~13歳の者には2.5合、4歳以下の者には2合を与える
⑤病人には食物と薬を与える
⑥自活できる能力がある者は、最初から地主になることができる
⑦婦女子や体の弱い者には別の仕事を与える
※一反(いったん)=300坪=990㎡ 一畝(いっせ)=30坪=99㎡
非常に恵まれた環境下で働けるような規則ですが、実は、開墾志願者を集めるための方便だった・・・
初富開墾当時の様子がよくわかるブログがありますので紹介いたします。
それは、「HAPPY☆リマのスピチュアルノート」というブログで、その中に初富開拓の歴史が記載されています。
以下、「HAPPY☆リマのスピチュアルノート」さんの承諾を得て引用させていただきました。
事業完結後には広大な開墾地を保有して大地主になれるという約定。
最終的には1760世帯、6500人が応募。しかし牧跡の原野は予想以上に厳しく、農業に不慣れな東京窮民では開墾は難行を極め、早くも明治5年には開墾会社は解散した。
開墾会社と農民との間に、土地をめぐる深刻な裁判闘争が起こった。
当初の開墾事業は、入植者の多くが農業未経験者だったことや周辺の村との軋轢、大風雨、干ばつなどの厳しい自然環境を理由に失敗した。
この失敗によって1891年(明治24年)頃まで初富の人口は漸減したが、残った者の地道な努力と、
従来の東京窮民ではない新しい開拓者として周辺の村々の農家の子弟が加わったことから遅々とはしながらも確実な営みとなった。
しかし、切り開いた土地の多くが旧開墾会社の社員の所有物となってしまい、入植者たちは小作人とされてしまったことから、入植者と旧社員との係争・訴訟が各地で起こった。
入植者が起こした裁判はことごとく敗訴したが、千葉県は旧社員から開墾地を買い上げ、安価で入植者へ払い下げるという救済措置を採った。(敗訴して切腹自殺した人もいた。)
ウイキペディアなどを参考にしました。
ここまでが、初富の開拓地のおおまかな歴史です。
・この開拓が失敗した理由
開墾事業の計画がずさんだった。
開墾会社の役員は、三井などの銀行家や商社マンだったので、農業に詳しくなかった。
自分たちの利益しか考えていなかった。
開墾が負担ばかりかかって儲けにならないとわかったので、すぐに撤退した。
入植した人たちのことは、どうでも良かった。
開墾事業の募集内容が良いことづくめのウソばかりだった。
・年間の衣食住を保障する。
・13歳から60歳の労働者に、1人5反歩、屋敷地5畝歩を与える。
・百姓ができない手工業者にも屋敷地5畝歩を与える。
・開墾従事者には1人1日白米5合を貸し与え、60歳以上13歳以下にも、扶持米を与える。
・病人には扶持米と、薬を与える。
・自活できる開墾可能者はすぐ地主になれる。
・婦女子や、体の弱い者には別の職を与えるという特権を与えられた。
つまり
畑や家や服をタダであげます。
作物が取れるようになるまで、みんなにお米をタダであげます。
病人には、お米と薬をあげます。
耕した土地は全部あなたの物になります。
あなたもすぐに地主になれます。(約5000㎡)
農作業できない人には別の仕事あります。など
農業未経験者がほとんどだった。
しかし、応募したのは下級武士と東京でもその日暮らしの貧民ばかりだった。
ほとんど農業をしたことのない人ばかりだった。
中には、ヤクザやばくち打ちも混じっていた。
応募者は築地の寮に集められ、翌日、船で市川まで運ばれ、そこから入植地の初富まで13キロ歩かされた。
うたい文句と違った劣悪な環境
家は、安普請の6軒長屋で、台風が来るとあっという間に倒れてしまった。
しかも、最初の年は何回も台風がやって来た。
畑として割り当てられた土地は痩せていて、水が出なくて何も育たなかった。
日照り、大雨、台風で、食糧不足と、不衛生な環境のため
最初の1年間で入植者の1割が病死、餓死した。
幼児と老人の死亡が異常に多かった。
翌年も同じくらい死亡した。
今でも、詳しいことはわかっていない。
政府の記録は残っているが、窮民の記録はほとんど残っていないので、今でも実体はよくわかっていない。
開墾会社(銀行や商社が運営)に有利な条件で、窮民には不利なことばかりだった。
会社に文句をいうと逮捕されて牢屋に入れられた。
獄中死した人もいた。
あまりにも約束が違うので、ボロボロの着物の母親たちがやせこけた幼児を抱いて、国会へ集団抗議に行った事件は新聞にも取り上げられた。
士族用の長屋は2軒長屋で広くてしっかりしていた。
士族の集落では死亡者が少なかった。(身分により待遇が違っていたのかもしれない。)
長野県で農業をしていた人が、故郷からソバのタネをもらってきて、それを栽培して生き延びた記録が残っている。
苦難の歴史の中で、皆で助け合い、学習しあって生き延びてきたのだった。
今では、よく耕された農地や広い梨園が広がる のどかな田園地帯ですが、150年前はこのような悲惨な生活が繰り広げられていたのですね。明治時代の初富の人々がどんなに苦労されたのか、想像するだけで涙がでます。
激動の時代に、元武士も都会暮らしの貧民も生きるために必死だったのです。
この方々のご苦労の元に、今の私たちの繁栄があるのです。ただただ感謝しかありません。
以上、HAPPY☆リマのスピチュアルノートから引用しました。
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