宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)について

初富稲荷神社は、当地区の御守護と繁栄を願い、伏見稲荷大社より御分神五柱を勧請申し上げました。

御分神五柱とは、

宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)

食物の神

穀物の神

佐田彦大神(さたひこのおおかみ)

みちびきの神

みちひらきの神

猿田彦神(さるたひこ)の別名とする説あり

大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)

巫女さんの祖先神

宮殿の平安を守る女神

天照大神の待女として仕えたとされる

田中大神(たなかのおおかみ)

食物の神

田の神だと考えられている

四之大神(しのおおかみ)

農業の神

四季を表す神だと考えられている

この「五柱の神」の総称を稲荷大神と呼んでいます。

ここでは、主祭神である宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)について紹介したいと思います。

 名称

古事記:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

日本書紀:倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

 別称

御倉神(みくらのかみ)

屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)

専女(とうめ)

三狐神(みけつかみ)

調御倉神(つきのみくらのかみ)

稲荷神(お稲荷さん)

 父

古事記:須佐之男命(すさのおのみこと)

日本書紀:伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

 母

古事記:神大市比売(かみおおいちひめのみこと)

日本書紀:伊邪那美命(いざなみのみこと)

 兄

古事記:大年神(おおとしのかみ)

正月にお迎えする神

年の変わり目に訪れて、家の安泰や繁栄を見守ってくれる豊穣の神

 性別

古事記及び日本書紀ともに性別が明確にわかるような記述はありません。

平安時代の延喜式祝詞に、ウカノミタマを女神と見なしている記述があることから、古くから一般的には女神とされています。

「宇迦(うけ)」は食物の古形、稲霊(いなだま)を表し、「御」は神秘・神聖、「魂」は霊とすることから、ウカノミタマ神は「稲に宿る神秘な霊」とされ、食物の持つ生命力や稲霊(いなだま)が神秘的な女性的なものと考えていたのかもしれません。

ただ、伏見稲荷大社では女神とされていますが、笠間稲荷神社では男神とされています。

なみに、伏見稲荷大社の創建は和銅4年(711)ですが、笠間稲荷神社の創建は白雉2年(651)であり、笠間稲荷神社の方が古いです。

ウカノミタマ神は女神なのか男神なのか・・・真実は神のみぞ知る・・・ということでしょうか。

出典:木造宇迦乃御魂命坐像「小津神社所蔵」

出典:笠間稲荷神社の掛軸

出典:日本の神様読み解き辞典

稲倉魂命

出典:志和稲荷神社所蔵

 稲荷神と宇迦之御魂神は別の神様

お稲荷さんの発祥は、全国の稲荷神社の総本宮である「伏見稲荷大社」です。

渡来系の一族である地方豪族の秦(はた)氏は、伊奈利(いなり)と呼ばれる神様を信仰していました。

平安遷都以前の山城国の文化風土や地理などが記された「山城国風土記」の伝承には、秦伊侶具(はたのいろぐ)が射た餅が白鳥となって飛び立ち、降り立った山の峰に稲が実ったことから「伊奈利(いなり)」という社名になったと記されています。

「稲成り(いねなり)」が転じて「いなり」となったと言われており、「稲生」「稲成」「伊奈利」と表記する神社もあります。

平安時代(892年)に菅原道真によって編纂された史書には「稲荷」という文字が記されています。

実は「稲荷神」という名称は、古事記や日本書紀には登場しません。

稲荷神として宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の名前が最初に記された時期は、古事記が書かれた奈良時代より500年ほど後の、室町時代以降です。

このことから、ウカノミタマノカミ(宇迦之御魂神)は、「お稲荷さんの別名や同一の神様」というよりも、その特徴やご利益が似ているため「同一視されるようになった」と考えられています。

更に興味深いのは、伏見稲荷より創建が古い稲荷神社が存在するということです。

前にも書きましたが、伏見稲荷大社の創建は和銅4年(711)、笠間稲荷神社の創建は白雉2年(651)、そして、和歌山県有田市に鎮座する糸我稲荷神社(いとがいなりじんじゃ)の創建は白雉3年652)なのです。探せば他にもありそうです。

ということは、米を主食とする日本人には、元々稲荷神を信仰する習慣があったということです。

稲荷神は、元々民間伝承から生まれた神さまが、「稲荷神」として習合ならびに体系化されることで、一つの信仰形態に収束していったのではないでしょうか。

 豊受大神と宇迦之御魂神

豊受大神(とようけのおおかみ)は、伊勢神宮の天照大神のお食事を司る「御饌都神であり、衣食住、産業の守り神としても崇敬されています。一般的には女神とされています。

天照大神は本当は男神で、独り身で寂しいので豊受大神を呼び寄せたという説もあるくらいです。

古事記では、火之迦具土神(カグツチノカミ)を生んで、病床で苦しむ伊弉冉尊(イザナミノミコト)の尿から生まれた和久産巣日神(ワクムスビノカミ)の御子神とされています。

ご神名の「ウケ」とは、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の「宇迦(うけ)」と同様、「食物・穀物」を表し、食物の神とされることから、豊受大神と宇迦之御魂神は、同一神とされることが多いです。

しかし、それと同時に豊受大神と宇迦之御魂神は別の神であるとする説も多くあります。

 仏教系のお稲荷さんも存在する

仏教系のお稲荷様は、愛知県の豊川稲荷(圓福山妙厳寺・曹洞宗)や、岡山県の最上稲荷(最上稲荷山妙教寺・日蓮宗)があります。

豊川稲荷では、豐川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)という神様を祀っています。

吒枳尼眞天はもともとはインドの鬼神でしたが、仏教に帰依して、仏法を守る神様になったと言われています。

最上稲荷では、左肩に稲を担って右手に鎌を持ち、白い狐に乗った姿であらわされた、最上位経王大菩薩を祀っています。

出典:豐川吒枳尼眞天掛軸

出典最上位経王大菩薩掛軸

 キツネのイメージが悪いのはなぜか

キツネは、農事が始まる春先から秋の収穫期にかけて里に降りて姿を現し、穀物を荒らすネズミを捕食するなどして穀物を守り、収穫が終わるころに山へ戻っていくため、農耕を見守る稲荷大神のお使いと考えられていました。

農民の間ではキツネが土地に住むと豊作になる縁起の良いものとして信じられており、キツネには良いイメージしかなかったのです。

そんな良いイメージだったキツネが悪くなったのは、中国から仏教の修行を終えた修行僧が帰ってきた平安時代以降だと言われています。

中国には玉藻前(九尾狐)という凶悪な妖怪の伝説があり、キツネは、霊力を持ち妖術を駆使して人に害をなすという考え方があります。

そんなキツネの悪いイメージを使い、陰陽師や修験道の呪術者などの一部が、人々を誑(たぶら)かして利を得るために陰湿で怖いイメージを作り上げたのです。

こうして、キツネを霊獣として信仰する一方で、虎の威を借る狐、狐につままれる、狐に小豆飯、狐の嫁入りといったネガティブなイメージに使われる言葉も生れたのです。

 空海と伏見稲荷

平安時代初頭、唐で仏教の修行をして帰国後、高野山を開いたりしてめざましい活躍をしていた空海は、嵯峨天皇に認められ、建設途中だった東寺(教王護国寺)を与えられました。

そこで空海は、講堂を建立(825)するなどして、東寺が真言密教根本道場として栄える基礎を作りました。

その際に協力したのが秦氏で、建造用の木材を伏見の稲荷山から切り出して提供しました。このことがきっかけとなり、稲荷神は東寺の守護神として祀られたのです。

この時、仏教の枳尼天(だきにてん)と習合し、諸願祈請の神と仰がれ、キツネをその霊獣とする信仰が生まれました。

空海の教えが全国へと広まっていくとともに、稲荷神に対する信仰も日本中に広がっていくのです。

 稲荷大明神流記

東寺に伝わる「稲荷大明神流記」という有名な伝説を紹介します。

弘仁7年(816)、空海は、紀州田辺で稲荷神の化身である異形の老人に出会った。

身の丈8尺(2m40cm)、骨高く筋太くして、内に大権の気をふくみ、外に凡夫の相をあらわしていた。

老人は空海に会えたことをよろこんで言った。

<自分は神であり、汝には威徳がある。今まさに悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者になったからには、私の教えを受ける気はないか>

空海はこう答えた。

<(中国の)霊山においてあなたを拝んでお会いしたときに交わした誓約を忘れることはできません。

生きる姿はちがっていても心は同じです。私には密教を日本に伝え隆盛させたいという願いがあります。

神さまには仏法の擁護をお願い申し上げます。

京の九条に東寺という寺があります。ここで国家を鎮護するために密教を興すつもりです。

この寺でお待ちしておりますので、必ずお越しください>

弘仁14年(823)正月19日、空海は嵯峨天皇の勅により、東寺を鎮護国家の密教道場にすることを任された。

その年の4月13日、紀州で出会った神の化身の老人が稲をかつぎ、椙の葉を持って婦人2人と子供2人をともない東寺の南門にやってきた。

空海は大喜びして一行をもてなし、心より敬いながら、神の化身に飯食を供え、菓子を献じた。

その後しばらくの間、一行は八条二階堂の柴守の家に止宿した。

その間、空海は京の南東に東寺の造営のための材木を切り出す山を定めた。

また、この山に17日の間祈りを捧げて稲荷神に鎮座いただいた。

これが現在の稲荷社(伏見稲荷)であり、八条の二階堂は今の御旅所である。

空海は神輿を造って伏見稲荷、東寺、御旅所を回らせたのである。

この伝説が、空海と東寺の五重塔の用材と伏見稲荷山と御旅所をつなぐエピソードであります。

伏見稲荷は東寺の守り神なのです。

<伏見稲荷大社 稲荷祭の氏子祭>

画像は京都旅屋のブログから引用。

 民衆の神さま稲荷神

稲荷信仰は日本の民衆信仰のなかでも代表的な信仰のひとつです。

稲荷ブームは江戸時代に起きたと言われており、稲荷勧請がさかんに行われ、稲荷を祀った神社や屋敷神の数が爆発的な増加を見せました。

江戸の町の様子を表した俗言に「伊勢屋、稲荷に犬の糞」というのがあります。これは、至るところで見かけられるといった意味です。

江戸時代の民の84%は農家でした。そのため、五穀豊穣の神として稲荷神社は全国に広がっていきます。

さらに時代が変化し、農業から工業、商業と発展するに伴い、商売繁盛の神様として発展を遂げていきます。

その稲荷神社の主祭神であるウカノミタマは、繁栄の神、対応の神、柔軟性の神と言えるでしょう。

八百万の神はそれも良しとしたのではないでしょうか・・・