鎌ヶ谷市は都心から近く、私鉄4路線利用可能なターミナル駅(新鎌ヶ谷駅)を有し通勤便利な街です。

しかも、大谷翔平ゆかりのファイターズ鎌ヶ谷スタジアムがあり、緑豊かな公園や梨畑も多い自然と調和した落ち着いた街、 地震や台風にも強く、みんなが暮らしやすい街・・・

それが鎌ヶ谷です。

しかし、今からわずか150年前、筆舌(ひつぜつ)につくし難い先人の苦労があったことを御存じでしょうか・・・

それは初富開墾です。鎌ヶ谷は、初富開墾から始まったと言っても過言ではないでしょう・・・

ここでは、初富開墾の歴史を紹介したいと思います。

開墾会社の設立

徳川政権が倒れて時代は明治へと移り、いわゆる明治維新といわれる大改革が断行された。

武家制度の廃止に伴い、騒然とした世の中に職と家を失った徒輩が街々に彷徨し、暴動への危険をはらむ一触即発の世情であった。

こうした情勢に苦慮した政府は、旧幕府領下総十二牧の開拓を計画して、無籍浪々の徒を独立農家に養成し人心の鎮静を計ろうとした。

そして明治2年4月開墾規則草案が発表されて開墾局が設置された。

政府より20万両の貸付金(10年間無利子)が交付され、府下の商人三井八郎右衛門(後の三井財閥)たちによって開墾会社が設立された。

「開墾会社取締役総頭取申シ付ケ苗字帯刀差シ免シ候事……」これは東京府下の豪商三井八郎右衛門に渡された辞令である。

「印旛県史」より

渡辺崋山作 『四州真景』「釜原」

江戸時代後期の武士、画家 渡辺崋山が当時の釜ヶ原をスケッチしたもの。

初富の名付け親 北島秀朝

北島秀朝(ひでとも)は小金牧・佐倉牧の開墾を主導した人物である。

水戸藩領下野国(現栃木県)の神職の家に生まれた北島は、脱藩して岩倉具視の配下となって討幕運動に参加する。

明治2年東京府判事に就任した北島は、東京に困窮民があふれる現状を解決するため開墾事業の実施を主導し、自ら開墾局知事を兼任する。

明治2年10月には、視察のため粟野村の名主渋谷家に宿泊し、「初富」の名を発表する。

渋谷家に残されていた看板三枚は、当地で初富の地名を公表した歴史を物語る貴重な資料であることから平成10年に市指定文化財となっている。

北島は開墾事業末期の明治5年1月、和歌山県権令に転任し、さらに佐賀県令(現在の県知事)・長崎県令として手腕を振るうが、明治10年10月10日、病院視察時にコレラ感染し35歳の若さで病死した。

「鎌ヶ谷市郷土資料館より」

北島秀朝は初富命名後、以下入植順に下表のような12の地名を付けた。

(入植は13次に渡るが、のちに5次と6次の入植地を合わせて一つの地名とした)。

北島が名付けた開墾地名は、150年以上経過した今でも、全て地名として残っている。

「関東農政局HP」より

過酷を極めた開墾事業

開墾事業は決してなまやさしいことではなかった。

あたり一面、身のたけを上回る荊の荒野に、入植者はただ恐れをなしてなすすべもなかった。

雨露を凌ぐだけの農舎に住まい、手足はいばらに切り裂かれ、いかに覚悟はして来たとはいえあまりの苦痛に脱走するものもあった。

「炭ナク油ナク夜ハ渡サレシ薪ヲタキテ灯火ニ代エ、炉ニ添ウテ早ク寝ルヨリホカナク、昨日迄ノ都住居ノ身ハアタカモ百里モ山奥へ入リシ心地シテ……」とその心境を訴えている。

連日の苛酷な労働にもかかわらず開拓は遅々として進まず、それに加えて、烈風土砂をまくといわれた気象条件の中で、相次ぐ台風の襲来や頻発する火災など、予期せぬ災害が続発した。

しかしこうした中の明治3年秋、辛うじて幾ばくかの麦が収穫され、続いて夏作は「……岡穂ヲ始メ夏作第一、粟稗等至極生イ立宜シク一同気力ヲ得候処……」であったが、

期せずして真夏の炎天は作物の生気を奪い、やがて明治4年7月9日、古今未曽有と嘆かれた大暴風雨に襲われ、一転して奈落へと突き落とされた入植者は発すべき言葉すらなかった。

「鎌ヶ谷市HP」より

開墾会社の解散・紛争

こうした度重なる災害に会社もまた多額の出費を余儀なくされ、政府への援助の要請を行う一方その対策に奔走した。

もはや前途にその成果を期待することはないと判断した政府に対して、数カ月にわたる強硬な交渉を続けたが、

ついに窮民救済の方途も示されないまま、明治5年5月に事業を印旛県と新治県に引き継ぎ、後いくばくを経ずして会社は解散することになったのである。 

開墾会社が解散したその後、入植者は五反五畝歩の独立農家とはなったものの一切の援助を打ち切られたことから途方にくれ、五反五畝の割渡地を手離して離村する者が続出した。

こうしたことから千葉県は明治7年7月、「開墾村移住民窮民ノ所有地ニ銘々独立活計見据相立迄沽却ノ儀ハ勿論質入レモ一切不相成……」と発令した。

すなわち売ることも質入れすることも許さなかったわけである。

しかし入植者の中には法的に近郷農家の次三男を養子に迎えて土地を譲り渡し、暫くして離村するという方法を選んだ者もいた。

またこの頃、徴兵令の施行に当って戸主は兵役を免除されるという特典のあることを利用して、近在農家の次三男は好んで養子縁組に応じたともいわれ、こうしたことによって入植者の離村は日増にふえていった。

一方、独立農家となって残った人々や養子縁組によって跡地を引き継いだ人々と会社との間には、土地の配分をめぐって次々と紛争が各所に起こった。

解散に当って開墾会社は窮民割渡地を除いて、そのほとんどの土地を社員37名の出金高に応じて分割占有した。

総面積七千町歩といわれ、これらの中には離村した者の残していった土地や、近村移住民、通い作農民などの開拓した土地も含まれていたのであるが、それらについての権利は全く認められないまま一方的に小作人とさせられるなど、入植者の不満は沸騰するに至った。

会社側の横暴ともいうべき一方的な措置に農民が黙ってこれを認めるはずもなく、そのため入植地における紛争は各所に絶えなかった。

「松戸市史」より

これらの時代を経て、初富は徐々に豊かになっていくのです。

鎌ケ谷の梨栽培

江戸時代、八幡(現在の市川市八幡)の川上善六という人が野菜に代わる作物はないかと日本中を歩き、美濃国大垣(現在の岐阜県大垣市)のあたりで梨の栽培を見て関心を持ち、

そこの土が八幡の土に似ていたので八幡でもできるだろうと考え、梨の枝を譲り受け持ち帰った。

今の八幡神社のあたりにその枝を植えたところ3年後に数個の梨の実をつけ、さらに数年後この梨を「美濃梨」と名づけて江戸に出荷した。

すると、大層評判がよかったので近所の農家にもすすめ八幡で梨の栽培が盛んになり「八幡梨」と呼ばれるようになったという。

八幡地方の気候及び土壌条件が梨栽培に非常に適しており、大量消費地である江戸に近く出荷の便がよかった。

それらに加え、当時江戸近郊に梨を生産する地方が他になく高値で売れたため、この地方で梨栽培が盛んになった。

その後、江戸時代末期から明治にかけて、八幡、市川、柏、八柱、中山、鎌ケ谷、東葛飾等、南部葛飾郡一帯の旧町村がその主要産地として数えられ、今日の千葉県の梨栽培を発展させた。

鎌ケ谷は、隣接する八幡梨の影響により、江戸時代の末期に数戸の農家が親戚筋を通して栽培を始めたと言われ、歴史の古い産地である。

戦後、梨の新植が盛んに行われ、鎌ヶ谷市全域に広がり、栽培面積も急増していった。

「鎌ヶ谷市HP」より

「江戸時代の市川梨栽培図」(市川歴史博物館)

粟野の梨畑(昭和15年(1940)頃)

鎌ヶ谷の梨作りは、戦前は中沢地区中心でありましたが、親戚筋などを通して次第に鎌ヶ谷全域へ伝播していきました。

また、戦時中にも梨作りは行われていました。

梨の受粉作業を手伝う鎌ヶ谷中学校の生徒(昭和45年(1970)4月25日)

当時は、職場体験として中学校の生徒が受粉作業を手伝っていました。

中学生は、ご褒美としてふるまわれる美味しい昼食を食べるのが楽しみでした。

当時鎌ヶ谷には中学校は一校のみであり、11クラスあるマンモス校でした。


過酷を極め、困難な状況が続いていた初富開墾ですが、新たな土地での心の拠り所として初富稲荷神社の存在があったようです。

近隣の粟野村の人々が相撲興行を初富稲荷神社で行うなどして励ましたり、開墾人同士で農業の学習を行うなどした記録が残っています。

こうして紆余曲折としながらも、お互いに力を合わせ支え合いながら確実に歩みを進めていったのです。

今日の初富の繁栄は先人の努力の賜物なのです。

<現在、豊かな土壌で美味しい梨を栽培する梨農園>

先人の苦労があって今があることを、私たちは決して忘れてはいけません。