初富の名付け親・北島秀朝
北島秀朝(きたじま ひでとも)は小金牧・佐倉牧の開墾を主導した人物である。
水戸藩領下野国(現栃木県)の神職の家に生まれた北島は、脱藩して岩倉具視の配下となって討幕運動に参加する。
明治2年東京府判事に就任した北島は、東京に困窮民があふれる現状を解決するため開墾事業の実施を主導し、自ら開墾局知事を兼任する。
明治2年10月には、視察のため粟野村の名主渋谷家に宿泊し、「初富」の名を発表する。
渋谷家に残されていた看板三枚は、当地で初富の地名を公表した歴史を物語る貴重な資料であることから平成10年に市指定文化財となっている。
北島は開墾事業末期の明治5年1月、和歌山県権令に転任し、さらに佐賀県令(現在の県知事)・長崎県令として手腕を振るうが、明治10年10月10日、病院視察時にコレラ感染し35歳の若さで病死した。
「鎌ヶ谷市郷土資料館より引用」