総本社

伏見稲荷大社

ご祭神

宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)

佐田彦大神(さたひこのおおかみ)

大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)

田中大神(たなかのおおかみ)

四之大神(しのおおかみ)

ご利益

五穀豊穣・商売繁盛・家内安全・交通安全・学業成就・縁結び・諸願成就・万病平癒・安産 他

参拝形式

二拝二拍手一拝

創建

明治2年(西暦1869年)10月創建

再建

昭和41年(西暦1966年)10月25日 創建百年祭記念事業として再建

移転新改築

平成13年(西暦2001年)9月20日 再開発事業により移転新改築

社殿様式

普通宮造 木造瓦葺


明治政府は、徳川幕府瓦解により失業した東京窮民を救うため、下総の小金牧と佐倉牧の開墾事業に乗り出しました。

明治2年(1869年)5月19日下総台地開墾会社設立、同年10月2日「初富」の地名を発表、同年10月27日下総台地開墾事業初入植。

その後すぐに初富地区の開墾が始まり、ご守護と繁栄を願うため伏見稲荷大社より御分神五柱を勧請したのが、初富稲荷神社の始まりであります。

比較的新しい神社であるため、ご由緒に係る資料等が残っていますので掲載します。


初富稲荷神社は、初富地区開拓と共に、当地区の御守護と繁栄を願い、山城の国(現京都市伏見区)の、伏見稲荷大社より、御分神を遷奉申し上げ、氏神様として御鎮座、戴き時に、明治二年(西暦1869年)稲荷大神は、衣食住の大祖神として、五穀豊穣と又あらゆる産業の繁栄を拾い、物品の売買を盛んにし、商売繁昌の御神徳は、お稲荷様と云はれる程です。

高徳なるお祭神を氏神様に穀いて居る各位には、家族共子孫の繁栄の為、信仰の原点、氏神信仰の道に精進され御神徳を頂いて下さい。

旧初富の地名の総鎮守様です。

(境内掲示より)


明治時代になり、新政府は、東京で窮民となった武士や町人らに対して、その対策と首都の治安維持を目的として、房総北部にあった旧江戸幕府の牧を開墾することを計画しました。

鎌ヶ谷市の「初富」という地名は、その最初の開墾地ということと、開墾地が豊かになるように祈りを込めて付けられた名称です。

そして、政府が設置した開墾局と開墾を請け負った開墾会社の監督のもと、東京から入植した窮民らによって開墾事業は進められていきました。

しかし、開墾人たちの生活は大変厳しく、3年間保障されるはずだった食料の配給は、次第に支給を減らされました。

また、毎年のように来る台風で農作物や住居も大きな被害を受け、病気等で多くの大人や子どもが亡くなるなど苦労の絶えないものでした。

こうした状況の中でも、近隣の粟野村の人々が相撲興行を初富稲荷神社で行うなどして励ましたり、開墾人同士で農業の学習を行うなどして支え合って生活していました。

一方、事業は開墾会社の解散により、明治5年(1872)に終焉を迎えますが、開墾人たちが与えられた土地以外の開墾地の多くは開墾会社社員に分配されてしまい、この土地の所有権を巡って両者の間で裁判も起こっています。

市内には前述の土地の所有権を巡る裁判記録など、開墾事業の様子やその後の状況を伝える歴史資料が多数残っています。

いずれも初富開墾の歴史を知る上で欠かせない資料であることから、市の指定文化財に指定されました。

(境内掲示より)


初富字富岡に鎮座し、祭神は保食命である。

初富地区の開墾にともない、明治二年(1869年)十月に京都の伏見稲荷大社から、開墾会社の大村五左衛門・加太八兵衛・湯浅七左衛門により分祀され、創立されたものである。

なお、伏見稲荷から請けた分霊が初午までに間に合わなかったため、この神社の祭は二の午に行なわれるのだという。

境内社として日本武尊を祀る古峯神社があり、大村らによって稲荷神社と同時に栃木県の古峯神社から勧請された。

このほか、菅原道真を祀る天神社も境内社として祀られている。また、東葛・印旛大師講第十二番札所が所在する。

神社の役員は宮総代一名と世話人数名で、これは区長と各自治会長とが相談して決めるが、自治会単位に選ばれるとは限らない。

氏子は各自治会に入ると自動的に資格が得られるが、希望者のみとなっている。

(鎌ヶ谷市史資料編より)


明治二年(1869年)、明治政府は徳川幕府瓦解による混乱で生活の糧を失った東京(江戸)の窮民を救済するため、幕府の馬牧場だった千葉県内の小金牧、佐倉牧の開墾事業に乗り出します。明治2年から4年にかけ13の開墾地が造られました。 

小金牧の一部であった初富は最初に着手された土地で、鎌ケ谷市史によると明治2年の10月末から12月にかけて311世帯・1136人が農業に従事するため入植しました。

開墾地第一号だったので「初」の字と、豊かな実りになるようにとの願いを込めた「富」の字を組み合わせて「初富」という地名が付けられました。

初富に続き、二和、三咲(船橋市)、豊四季(柏市)、五香、六実(松戸市)などの開墾地が順番に開かれていきます。

いずれも、数字と縁起のいい好字を組み合わせて命名されました。

(鎌ヶ谷市HPより)


以上、初富稲荷神社ご由緒に係る資料等を掲載いたしましたが、以下、要点をまとめてみました。

1 初富開墾は、大政奉還により職を失った下級武士等を救うため、明治政府が徳川幕府の馬牧場を開墾地として開放したものである。

2 開墾事業には開墾会社が存在し、開墾地には神様が必要なため開墾会社の社員3名により京都の伏見稲荷大社から分祀されている。

3 開墾事業は明治2年から4年にかけて行われ、13の開墾地が造られている。

4 初富は開墾地第1号であり、「初」の字と「富」の字を組み合わせ、豊かな実りになるようにとの願いが込められている。

5 初富稲荷神社は、古峯神社、天神社(天満宮)及び大師堂までもが存在する貴重な神社である。

6 創建時、伏見神社から請けた分霊が初午までに間に合わなかったため、祭礼を二の午に行われることになった。 

7 開墾人たちの生活は非常に厳しく、亡くなる人も多く、苦労の絶えない日々であった。

8 そんな中でも相撲興行を初富稲荷神社で行うなど、初富稲荷神社は開墾人にとって心の拠り所であった。

初富稲荷神社は、まさに初富開墾の歴史でもあり、先人の意思を引き継ぎ、未来永劫守り続けなければなりません。


初富(初めに富がやってくる)という縁起の良い名前にあやかり、なにか新しいことを始める際にお詣りする人が多い神社です。

結婚、出産、入学、進学、入社、新築、新しい財布を使い始めるなどの時は、初富稲荷神社へお詣りください。

きっと素晴らしい御利益があることでしょう。


御神徳

稲荷大神は五穀豊穣・産業興隆・商売繁盛・福徳円満・交通安全・家業繁栄を守護する神として広く多くの信仰を集めています。

この御神徳に対する根強い信仰はやがて我々の日常生活においてもいつも稲荷大神とともにありたいという念願をうむこととなり、その結果稲荷大神の御分霊をお祀りすることとなります。

平安期に小野篁(おののたかむら)が東北の鎮守として当社の御分霊を勧請したことは有名ですが、豊臣秀吉は当社にほど近い伏見の地に築城するに際し「満足稲荷」を城中の鎮守とし、また晩年には聚楽第の守護神として「出世稲荷」を勧請しました。

またこの秀吉の稲荷勧請が諸国の大名、更には一般庶民の稲荷勧請に大きな影響を与えたと考えられ、ひいては今日の稲荷信仰が隆盛をみるにいたった原動力になったと考えられます。

(伏見稲荷大社の稲荷暦より引用)